礒貝 洋光いそがい ひろみつ

小学校時代に全日本少年サッカー大会に出場すると「天才」サッカー少年として脚光を浴びた。中学時代はU-17日本代表のエースストライカー。 1985年に高校サッカーの名門帝京高校に入学すると1年生から10番を背負った。1986年にはU-20日本代表としてFIFAワールドユースアジア予選に出場した。

1988年に東海大学に入学すると澤登正朗と共に1年時からレギュラーとして全日本大学サッカー選手権大会を始め多くのタイトルを獲得した。また1991年に日本代表に選出され、4月のスパルタク・モスクワ戦と5月のバスコ・ダ・ガマ戦でプレーしている(在学中はAマッチ出場は無し)。Jリーグ開幕前年の1992年に東海大学を中退して、ガンバ大阪に入団。自身への挑戦のため、あえて馴染みのない関西のクラブに入団したとの事である。

その後は永島昭浩本並健治らと共に、Jリーグ初期のガンバ大阪を盛り上げた。常に主力として活躍し、キャプテンを担った事もあった。1995年の日本代表としてインターコンチネンタル選手権で念願のAマッチデビューを果たすがこれが最後の代表出場となった[1]。1997年に浦和レッドダイヤモンズに移籍したが翌1998年に29歳で現役を引退した。Jリーグ通算成績は135試合出場29得点。

現在のところ日本プロゴルフ協会の会員一覧に掲載されていないが、プロゴルファーとして日本のトップを目指すと公言している[2]。

2007年1月に行われた学生時代からのライバル・澤登の引退試合に招待され参加した

石神 直哉いしがみ なおや、

鹿島高校、神奈川大学を経て、2007年地元・鹿島アントラーズへ入団。1年目はサイドバックの控えとしてリーグ戦10試合に出場した。しかし2年目になると出場機会を減らす。2009年、出場機会を得るためJ2・セレッソ大阪期限付き移籍C大阪移籍後はケガ人の影響などで左のサイドプレーヤーが流動的だったこともあり、3-5-2の左ウイングバックのレギュラーの座を掴む。すると持ち前の運動量を武器に累積警告で出場停止になった1試合を除いた50試合にフルタイム出場し5ゴール。チームのJ1昇格に貢献した。

2010年、鹿島との3年契約が満了だったこともあり、復帰せずC大阪に完全移籍。負傷離脱から戻った尾亦弘友希とポジションを争っていたが、シーズン序盤は尾亦にレギュラーを奪われ、W杯明け後には若手の丸橋祐介の台頭もあった為、途中出場の多いシーズンとなった。

2011年から湘南ベルマーレへ完全移籍。翌2012年は大分トリニータ期限付き移籍し大分のJ1復帰に貢献した。2013年は大分との期限付き移籍を満了し、東京ヴェルディ期限付き移籍。12月12日、東京V[1]、湘南の両クラブから契約満了が発表された[2]。

2014年からV・ファーレン長崎へ移籍[3]。シーズン序盤はサブや途中出場が多かったが、終盤ではスタメンに定着しシーズン2得点7アシスト。

記録した2得点はいずれもFKを直接沈めたもので、どちらもノミネートゴールにエントリーされるなどインパクトを残した。

 

石井 豊

浦和学院から明治大学に進学すると、2年生時からセンターバックとして活躍。4年時に同校の関東大学サッカーリーグ一部復帰に貢献し、二部リーグのベストイレブンに選出された。

大学卒業後は鳥栖フューチャーズに入団。DFながら強烈なフリーキックで得点を挙げるなど活躍したが[1][2]、チーム解散の憂き目にあい、東京ガス(後のFC東京)へ移籍。4バックを採用していた東京ガスではサイドバックでも起用され[2]、攻撃参加時にはしばしば豪快なロングシュートを放った[2]。

引退後は4年間、母校の浦和学院高校サッカー部コーチを務め[1]、2003年からFC東京に普及部コーチとして復帰。2005年に日本サッカー協会公認B級ライセンス取得[3]。2006年からは強化部に入り選手スカウトを担当する。明治大学の後輩にあたる長友佑都Jリーグ特別指定、在学中でのプロ入りに尽力した一人[4][5]。2015年からはFC東京の強化部長に就任した。

石井 正忠いしい まさただ

順天堂大学より、1989年に当時日本サッカーリーグ2部所属だったNTT関東サッカー部へ入団。1年目から出場機会を得た。

1991年、既にプロ化に向けて動き始めていた住友金属工業蹴球団へ移籍。鹿島アントラーズの創設メンバーとなり、Jリーグ黎明期の鹿島の主力として活躍した。1997年に固定背番号制になるまでは、ガンバ大阪今藤幸治ほどではないものの、石井も先発出場の際には多くの番号を付けた。1998年にアビスパ福岡へ移籍し、そのシーズン限りで引退。

引退後すぐに古巣の鹿島で指導者の道に入る。ユースチームのコーチを経て、2002年から2011年までは10年間にわたってトップチームのフィジカルコーチを務め、2012年からは総合コーチとなった。

2015年7月、トニーニョ・セレーゾの成績不振による解任に伴い、鹿島の監督に就任。鹿島にとっては、2度監督代行を務めた関塚隆を除けば、初代監督の宮本征勝以来21年ぶり2人目の日本人監督となった。

2015年10月31日、石井監督就任後、勝負強さが戻った鹿島は好調を維持しヤマザキナビスコカップJリーグカップ)決勝にてガンバ大阪に3-0で勝利し優勝。監督就任初年度に初タイトルを獲得した。

またJ1リーグも終盤までサンフレッチェ広島と優勝争いを続け、2ndステージを2位で終えた。

NIKE AIR JORDAN V 136027-188

AIR JORDAN(

ナイキエアジョーダン5

)シリーズの中でも圧倒的な人気を誇るAIR JORDAN V(エアジョーダン5)。1990年に発売され、戦闘機をモチーフにしたデザインなどでも人気となった名作、AIR JORDAN 5の復刻にリリース前から話題となっていたNEW COLORが遂に登場!!重厚感あるブラックヌバックアッパーに鮮やかなグレープカラーが映える間違いなしの配色で、クリアパーツなどジョーダンスニーカー5特有のディティールも健在!!当時、アウトソールにもジャンプマンが落とし込まれたのも今作が初となり、デザイン性も抜群な1足!!当時を知る方は勿論、そうでない方も今なお絶大な人気を誇るフリーク必見のJORDAN 5から、現地でも入手困難なは大人気間違いなし!!お見逃しなく!!生誕23周年となったJORDAN 5から限られた店舗でのみリリースされたフリーク必見の今作は現地でも大きな話題となっている大人気間違いなしの1足!!お見逃しなく!!

五十嵐 和也いがらし かずや

岩手県立遠野高校を卒業後、1984年に古河電工に入団。2年目の1985年にレギュラーの座を掴み、[1] 同シーズンの日本サッカーリーグ(JSL)優勝に貢献。1986-1987シーズンには日本のクラブとして初のアジア制覇となったアジアクラブ選手権のタイトルを獲得する。[2]

1992年にJリーグが発足した後も古河電工の後身クラブであるジェフユナイテッド市原で1996年までプレーした。ジェフ退団後は、当時関東リーグ所属の横河電機に移籍し、1999年より日本フットボールリーグ昇格、2000年シーズンで現役を退いた。通算試合出場は、JSLでは115試合、Jリーグでは76試合。

2001年は横河電機のアシスタントコーチ、2002年は横河電機のアドバイザーコーチを歴任。2008年現在は成立学園高校サッカー部でコーチを務める。[3]。2013年から成立ゼブラクラブのジュニアユース監督を務める[4]。

飯田 健巳いいだ たつみ

座間市立西中学校、向上高等学校、上武大学を経て2008年に、当時JFLであった栃木SCに入団。しかし、小針清允らライバル達の壁を崩せずに1年で退団。

2009年に横浜FCに入団するが、GKが飯田含めて5人おり、ベンチ入りすら困難で出場機会はなく1年で退団。2010年に1年で栃木へ復帰するも、数試合のベンチ入りのみで出場機会は無かった。

2011年、カターレ富山へ移籍。第20節サガン鳥栖戦でJリーグ初出場を果たし勝利に貢献した。それ以降内藤圭佑に代わって正GKに定着していたが、シーズン終盤は負傷から復帰した鶴田達也にポジションを奪われた。

2012年は第16節愛媛FC戦で左頬骨骨折と脳震盪により負傷。この代役として、京都サンガF.C.から守田達弥期限付き移籍で加入。登録ウインドー適用の例外措置としての加入のため、飯田は6月15日付けで選手登録が抹消されたが[1]、7月20日付けで再登録された[2]。